文化産業の問題、かといってリテラシー学習は必要だ

下書き


有名な思想家なのに、つい最近知ったということを正直に言いましょう。スティグレールという思想家がいて、岩波の『世界』にインタビューが載っている。

そこで紹介されていることを私なりに咀嚼して、書いてみる。私の感想と理解の仕方が混在していることをご了承下さい。

文化産業(映画や雑誌メディアや音楽)が、人々が消費をするように(車に乗ってデートするのがカッコイイ。男はウイスキーを飲むべきだ、などなど)教育する。情報は大きく多様化しているはずなのに、同じような行為をするように仕組まれていくことになる。これには学校教育も同様に関係していて、給食によって、ハンバーグに馴染むし、文字の書き方、文章の読み方を学ぶ、そのことで小説を読めるようになり、文学を嗜好したり、音楽を好きになったりする。学校とサブカルチャー文化産業はいっしょになって消費者を作り出した。文字を読む文化にしろ、隊列を作る技術にしろ、学校が教えたという比重が大きい。

この意味で、学校とサブカルチャー、そしてテレビなどは、同罪といえよう。もともと、サブカルチャーと学校教育は、対抗するものではなくて、同罪だったのだ。

その上で、みんなはすでに消費者になっているのだから、教育する必要はなく、学びたいかそうではないかは、その人の自由で、結果、就職できない成人になっても、その人の自由であり、自己責任である、として教育のインフラの恩恵を受けるか否かも個人的な意志でよいとする、ただ乗り論があらわれる。マーケットにとっては、テレビを自宅で見てくれて、すでに消費者になっているのであれば、それ以上の教育的な投資は必要がない、というわけだ。この意味で、学校教育から、識字教育的、あるいは芸術鑑賞的な要素を切り捨ててしまうのは、問題かも知れない。国民教育を押しつけているという側面もあるが、それすらなくなれば、流民になってしまう危険性がある。

どうなのだろう。人が本を読み、情報を選択し、精査するという技術あるいはそういうことをするものだとする趣向性のようにも見える文化も家庭や学校によって学んできたものであるのなら、やはり学ぶプロセスは必要だろう。それは社会史的にも、本の流通ということはかなりの時間をかけて作り上げられてきたものといえる。書店流通システムなど。しかし、書店がなくても、学校がなくても、親が読書を教えなくても、ネット書店があれば、アクセスできる、あるいは電子書籍があれば、今までの流通や教育などのインフラは必要ないのだろうか。届けばいい、というのかどうか。

電子教科書ということをいって、学校の教科書を電子化するということを主張される方もいるようだが、代替の仕組みが電子的にできたとして、それに全てを入れ替えてしまうというのは、安直ではないか。本当に代替できるのかということは時代を経てみないと分からないことであるのに、そう仕組みをかえていいのかどうか。文字のリテラシーを得るのに、実際に紙に書いて、声に出してというプロセスはなくてもいいものなのか。書く行為については、ノートがあればいい、とも言えるのかもしれないが、教科書のスミに書き込んだりするということが、学習の定着に役に立っているというのは大いにあり得ることではないか。教科により、年齢により、内容により、電子的な媒体の方がいいこともあれば、そうではないこともあるのではないだろうか。

わからない、あらたなリテラシーを作るという方向に行くのか、読み書き能力を育成できずに、ネット的なメディアだけで代替できるのだろうか。複数のメディアに同時に接するような環境の方がベターではないだろうか。

というようなことを、スティグレールのインタビューを読んで思った。

さて、学術出版は、文化産業なのだろうか?