iPadを巡って 事務所で調べる読書と独居でする読書は違うということ

昨日、iPadの発売が発表された。

読書端末としては、魅力的ではないなあというのが偽らざるを得ない感情だった。

スティーブ・ジョブスのスピーチでは52分くらいのところで書籍の話しになる。あっけない。あまりに短くて、充実感を得られないまま、いきなりiWorksの話しになって、ひょっとしたらiBooksとiWorksを連携して使う話しになるのかと思いましたが、そうはなりませんでした。PVに映し出されている会場の雰囲気は、あれっという感じに見えました。

事務所で調べる読書と独居でする読書は違うということだろうか、ということを思わせられた。

事務所で調べ物をしながら、本を読んでいるときは、分からないことがあれば、パソコンですぐに検索するでしょう。それはさくさくというかストレスなく、シームレスにつながることのうれしさはある。分からないことばは、たいていがwikipediaで調べることになる。

だが、iPadを見て、それを本の読書に持ち込むのはちょっとたのしくないのではないか、と感じた。何か、パソコンを広げながら、フランス料理を食べているような感じ。ワインがでてくると、その銘柄やネットでの値段を調べ、料理が出てくるとその産地を調べみたいな感じ。それは独居する読書体験とは違うのではないか。

もう、フルコースを頼んだら、任せたい。おいしいモノを味わいたい!会話を楽しみたい!、というふうにスイッチは変わるわけだ。そこで、品質やら何やら調べようと思うだろうか。

とするとiPadよりも、amazon Kindleの方が、離れ小島に行って、先週ダウンロードしておいた本を浜辺で読むと言うことが可能だろう。楽しめるだろう。とすると読書として楽しむには、これは、ペーパーバックの小説、文庫、新書のようなものに合っているということになるのではないか。新書、文庫は大いに、電子書籍化するだろう。あとは、現場で見る設計図のような作業用にamazon Kinlde DXは画面が大きくていいし、iPadもいいだろう。

情報検索する読書と沈思黙考する読書は違っていて、その場合に必要な環境も違うのではないか。どっちにでも使えるはずのiPadが出たことでそのことが何だか、思い知らされた、ということなのではないか。