2009年は、テキストの極北の時代が訪れた よいお年を

2009年は、テキストの極北の時代が訪れたと呼べるのではないでしょうか。


これまでのテキスト史を概観するためにめちゃくちゃいいかげんに歴史を振り返る。ライターなら、仕事がこなくなるかもしれないが、私はオーナー編集者なので、その心配はあまりない。(適宜、修正していきますのでお許しを。)




1980年代前半 ワープロの普及→家庭に「組版所」を持つことが可能
1980年代半ば マック、レーザープリンターの普及→家庭に「製版所」を持つことを可能にした
       パソコン通信の普及→通信網の一部が開放
1990年代 DTPにより、プロ仕様の組版・製版が可能
1990年代半ば インターネットによりテキストの世界的な公開が可能。これを電子的なパブリッシング(電子出版)と呼ぶことができる。
発信・流通においても大きな規模がなくても可能となる。ただし、サーバーの知識、HTMLなどの知識が必要
1998年 「投げ銭システム」を提唱。情報の流通は容易なのに、経済的な循環のインフラがなかったことにより、必要性を提唱した。
1998年 google社創業。(http://internet.watch.impress.co.jp/cda/news/2005/09/27/9266.html
2001年 ムーバブルタイプ、ブログにより、htmlの知識なく発信が可能になる
2004年 mixiGREEなどSNSの登場。
2005年 youtubeなどにより動画の配信が可能となる。動画のブロードキャストが可能になる
2006年 i Phoneなどにより、短文、単段落レベルの発信が容易になる。twitterの登場。
2009年 アマゾン、Kindle Wireless Reading Deviceにより電子書籍フォーマットを普及させようとする。twitterの普及。




twitterは、140文字のテキスト発信革命と呼んでおきましょう。とともに、単語レベルでは「思想」の発信と呼べないので、これ以上短くなることはないという意味で極北、あるいは最終段階が訪れたと言えるのではないでしょうか。これを「テキストの底」と呼ぶことにします。人類はじまって以来のテキスト発信・交換ブームの最終段階に達したといえるのではないでしょうか。それが、ベルリンの壁から、20年後というのは意味深いことです。2009年は、テキストの底にたどり着いた年。


以前書いたことだが、食べログを見ると「消費者」という存在も、極北に近づいていると思う。ネットでテキストを書いて、発信している「消費者」たちであるが、テキストを発するということについての気構えが不十分なのではないだろうか。ある店の料理を「不味い」「サービスが悪い」とネットで発するということは、どういう意味を持ちうるのかということへの気遣いがない人が多い。何かを読み取り、何かを発信するということの倫理について、おおむね人間のすべてが関わりうる時代になったということだ。読者・消費者であるということをこえて、批評家にもなりうるということだ。批評家には倫理が必要だろう。私は、Kindle Wireless Reading Deviceが日本で売り出されたということよりも、このことの方が電子出版、つまり食べログのコメントはすでにもうパブリッシュなのであり、ジャーナリズムなのであるから。私は、このことからも揺り返しが生まれると思っている。テキストで発信するというのはどういうことなのか、ということがあらためて問われる時がそろそろ訪れると思う。


昨年の東京新聞で、吉田司が、秋葉原事件の際、「一般市民」が、事件の時、助けようとか逃げだそうとかしないで、携帯で写真を撮っていたことに対して、マスコミが批判した際に、一般市民がこれまでのマスコミと同じことをしたということだと、批判を切り捨てていたけれど、一般市民がすでにマスコミであり、パブリッシャーであるという時代にどうするか、ということが課題であって、Kindle Wireless Reading Deviceに対応した書籍がどうのこうのというのは、ちと話しの筋を誤っていないかというのが今年の感想。


twitterの年の次の年、2010年は底からの離脱にしたいものだ。