twitterの時代、フローのテキストとストックのテキストの意味が、問
twitterの時代、フローのテキストとストックのテキストの意味が、問い直されている。これまでテキストといえば、それは、ストックのテキストが、テキストであったと言って良いかもしれない。組版し、印刷されるためには、インフラが必要で、それにアクセスできる人は、限られた人であったと言って良いかもしれない。それが、1980年代にワーブロが普及し、全ての人に印刷機が普及した。これが、インターネットの時代、さらに複製と配達が可能になった。そして、twitterにより、技術的にはまとめたり、推敲もせずに思っただけのことを書き、発信できるようになった。これは、極北だ。行きつくところまで来たということではないか。
わたしは、折り返し地点だと思う。誰でも書くことが、できることは、誰でも読まれるということを意味しないのは、当然のことだ。書く力のあるある人は、書く力だけで読まれるだろうが、そんな力のない人は、書いても読まれない。ある人は、リアルの世界で知られていることによって読まれるだろうが、ある人は、リアルな世界で知られていても、読まれない。どういう書き方が読まれるのだろうか。
かなり厳しい世界に、なる。このこと自体、望ましいことなのだろうか?文章力が、決め手の基本になる。望ましいかどうかということとは別にそうなるだろう。私たちにその覚悟があるのかどうか。
読まれることが重要になる時代、あらためて文学が問われるのだろう。そのことに答えられるのであれば、文学者は再評価され、大学の文学部はそのことに答えられるのであれば、再生する。そういう折り返しの地点を通り抜けたということではないか。
学会が、中継できて、そこに行かなくても共有できるのであれば、そこにいくこと、参加することが問い直される。なぜ、そこに行かなければならないのか、そこに居ないといけないのか。中継できるということは、そういうことである。そう考えると演劇などのリアルタイムのパフォーマンス芸術の意味が、再評価されることになる。このことを正面から受け止めたい。