第1回 事業仕分けに関する助成金フォーラム、に参加

第1回 事業仕分けに関する助成金フォーラム、に参加。私のブログの読者は、出版関係や学術関係の方が多いかも知れませんが、ここでいう助成金は、芸術支援に関するもので、科研費などの助成金ではありません。とはいうものの、大いに関わりがあると思います。



いろいろな方が実感に即した発言をしていて、他人事的に言うと面白かった。とはいえ、自分事的に言うと非常に切羽詰まったモノで、科研費研究成果公開促進費がなくなるというようなことが言われた場合に、出版社の人間はあのように集まって意見を言い合うことがあるのか、というとその可能性は非常に低いだろう。ほとんど断言できる。

最初、セゾン財団の片山さんの話で、成果というものを長期的かつ変化をもたらすという視点が重要だという話しからはじまったが、前半の発言はどちらかというと、実感にそくしたもので「このようなよいことを行った」「こんなふうに感謝された」というものであった。それぞれのご苦労が忍ばれ、聞いていると面白いモノであったが、それはどうしても内輪向けのものになってしまいがちで、「何で助成金が必要なのか」という問いかけに「助成金がなければできませんでした」では、トートロジーではないかという指摘があり、芸術の公共性に対する貢献を外部に通じることばで、語らなければならないのではないかという意見が出、その一方でそれは、芸術家の仕事なのかという声もあり、それはマネジメントに関わる人々、プログラムオフィサーの仕事ではないのか、分業ということもあるのではないか、との指摘があり、芸術は産業振興にもつながるし、韓国などの政策と比して、国力の充実という国際政策としての重要性があるのではないかとの指摘があり、一方また、効率と言うよりはあそびであり、産業振興と違ったことばを見つけないと行けないのではないかとの意見があり、また、日仏の交流と言うことでは実際に国民レベルの交流が高まっていると言うことも成果として言挙げすべきという意見もあり、様々な意見が飛び交った。

一方、国際交流基金の現職の舞台芸術担当の方の時間を取るものの、あまり実のない発言もあり、たぶん、あの場にいた実務の人は基金に頼れないなあと実感させられたのではないか。あのような発言の仕方では、事業仕分けに充分に反論できまい。私が思うのであるが、芸術振興はきれいごとではできないことが多いのだから、芸術を振興するためには、役人的な律儀さではなく、黒幕的なパワーが必要に違いない。お金を取ってくるわけなのだから。仕分けは問題だが、文化行政に関わる人に対して、実務家の方から批評ができるような仕組みも必要だろう。実演家はスポンサーに提案書を出して、選ばれるけれども、スポンサーする立場の人が、提案して、それについて批評されることがない。厳しい意見になるが。とはいえ、これは私にも振り返ってくる問題で、研究成果公開促進費を守ることができるのか、実際の学振の担当者に力添えをできるのかというと、自分に引き返してくる切実な課題だ。

さて、学問というものも、芸術の一つであり、できれば学芸というくくりを作り出したいと思う私は、学術を支えようと考える出版人としてもっと力を付けないといけない、その力というのは闇の力ではなく、語り方とボキャブラリーだ。そして、それを発信すること。アートはアート支援NPOというものがある。一方、学術はどうか、特に文科系。作家の都知事が、文学部を解体する時代である。どのように人文学を再興するか、というのは大きすぎるテーマであり、そのためのことばとはというのは思い課題。

はい、頑張ります。

学芸復興!



図書館のあり方を変えたいと願ったときに菅谷明子さんと「進化する図書館の会」を作った。その時に、TRCの支える「NPO図書館の学校」の雑誌に連載をしていたときに、「税金を使う図書館から、税金を作る図書館」というキャッチフレーズを考え、ビジネス支援図書館推進協議会を作ったわけだが、そういうことを私自身の仕事について行う必要がある時が来た、ということだ。

http://www.amazon.co.jp/%E7%A8%8E%E9%87%91%E3%82%92%E4%BD%BF%E3%81%86%E5%9B%B3%E6%9B%B8%E9%A4%A8%E3%81%8B%E3%82%89%E7%A8%8E%E9%87%91%E3%82%92%E4%BD%9C%E3%82%8B%E5%9B%B3%E6%9B%B8%E9%A4%A8%E3%81%B8-%E6%9D%BE%E6%9C%AC-%E5%8A%9F/dp/4894761602/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=books&qid=1260238918&sr=1-1

この標語を唱えたときには、某図書館の人に「さもしいサービス」と言われたこともある。




話しは変わるがtiwtterは、たぶん、ネットだけだめだということを、みんなが実感するきっかけになるのではないかと思う。流れる、散発する、消えていくことば、というものの可能性とともに、限界性を多くの人が実感することになるのではないか。文章として、140文字ではなく、定着することがどんなに大事で、そうすることがなかなか大変なことなのか、ということを世界的に実感するという、フローテキスト主義の極北であり、そのあとにはストックするテキストについての、再認識、見直しが起こるのではないか。

そこに文科系の学問の再評価の機縁がある、と私は思うのだ。