プロフィシエンシーという考え方

自分の日誌だが、引用しておく。タスクとプロフィシエンシーという考え方の違いに注目されたい。

http://www.hituzi.co.jp/kotoba/20080920ns.html

2008年9月20日(土)
プロフィシエンシーという考え方は面白い


市民社会を実現するために(題目)、議論して、市民自らがものごとを決めることのできるコミュニケーションが必要(Can Do ステートメント)だ、公共図書館を充実させる必要がある(施策、施設)ということは言えるだろう。じゃあ、どう公共図書館を使いこなし、どう実際の生活の中で議論や考えることの試行錯誤を起こしていけばいいのか(プロフィシエンシーをどのように生み出すか)という視点は全くなかったのではないだろうか。(図書館学にも、情報を項目化する研究はあるけれども、どのように知的活動が起こるか、起こしうるかという研究はほとんどないと思う。)


プロフィシエンシーをどのように生み出すか、どのように高めるかということ自体が、21世紀の社会的な知にとっては重要なことだ。図書館を作れば、箱を作れば、人々は議論を始めて市民的な課題を自ら解決し、ビジネスに知恵を絞り、起業するかというとそれは違う。


振り返って考えてみると、何もしないのが理想という「教えない日本語教育」が提言されたことがかつてあった。どちらかというと「教師」ぽくない、自由なたちばの方が提言されていたように思う。たしかに、教えたい病の人にはいい薬ではあるけれども、今や、ニセ薬になってしまったのではないか。無くていいのではなくて、「生み出す日本語教育」が求められているのだと確信する。日本語教育の社会化も必要だが、社会活動の日本語教育化という視点も可能だろう。日本語教育学者は、もっと社会に出ましょう。