『国語年鑑』の書籍の刊行停止 市民アクセス不全の危険性

『国語年鑑』の紙の版の刊行を停止するとのこと。市民アクセス不全の危険性を考えるべきではないか。



年鑑というものの性格として紙版と電子版のどちらが意義があるだろうか。論文や刊行物の書誌的な情報であれば、ネットで配信した方がよいかもしれない。そういう判断もありえるだろう。

かつての『国語年鑑』は、言葉関係の研究者・著者の住所録もあって、その年の概況を知るのにとても便利であった。しかし、ネットではそういう情報は掲載できないだろう。余談だが、新聞社とかテレビ局の人から、電話が掛かってきてとても有名な人の連絡先を聞かれるということがあって、そのたびに、マスコミのくせに『国語年鑑』くらいもっていないのかと思ったものである。



危惧は2つあって、そうならないようにしてほしい。紙を止めることによって、2次情報(その年の国語に関する情報・状況の要約とか抽出)を人力で作っていくということをないがしろにして欲しくないこと。2つ目は紙を止めたとしても読みやすい情報、整理された情報というのをコンピュータのアルゴリズムだけにたよるではなく、編集という機能を捨てて欲しくないということである。



紙を止めると言うことはイコール、2次情報の作成を止めてしまうこと、編集しないこととイコールではないはずだが、下手をするとそうなってしまう危険性がある。これらの機能は捨て去らないでほしい。



高校の図書館や市立図書館などに本書が紙の固まりとしてあったことによって、学生や市民に目に触れやすいということがあって、そのことによって国語の研究というものを知る糸口になっていたということがあったのではないだろうか。専門家になってしまった人々は、その分野の学術的なリテラシーができていて、それによって検索するという場合であれば、電子的な媒体でも問題はないかも知れない。そうではない非専門家に学問が開かれていくべき、時代にネットだけに絞ってしまうのは、紙代と印刷代の節約になるかもしれないが、それはこの『国語年鑑』の重要性の中では本当は大きくないのではないか?


モノがあって、存在が目に入る、ということは、親密性・親和性からして、アクセスしやすいということがあると思う。電子化して検索すればいいじゃないの、というふうに思っているとしたら、それは間違いであり、そうしていくことは、科学離れではないが、考えること離れを将来的に呼び起こすことになるのではないかと危惧を感じる。多くの人は、印刷しないと経費が掛からなくていいくらいの安易な気持ちではないだろうか。




『国語年鑑』の書籍(印刷媒体)の刊行停止と2009年版ー電子版ーの作成について
『国語年鑑』は,国語に関する研究情報を集めた日本で唯一の年鑑として,昭和29(1954)年以来,毎年刊行を続けてまいりましたが,
2009年10月の独立行政法人国立国語研究所大学共同利用機関法人人間文化研究機構への移管に関連して,印刷媒体による書籍としての
『国語年鑑』は刊行が停止されることになりました。(研究文献や研究論文等の情報は,2009年10月以降も,インターネット・ウェブ上での
公開などの形で,今後とも継続して提供されることになっています。)

この『国語年鑑 2009年版』ー電子版ーは,2008年版刊行当時(平成20年12月)には,上記の決定がなされていなかった事情も踏まえつつ,
編集された目録体の機能,利用のされ方,これまでの目録利用者の存在などを考慮して,電子版として編集,作成したものです。

http://www6.kokken.go.jp/dspace/handle/123456789/562