編集業務の変遷 原稿の素案

出版学会の『白書出版産業 データとチャートで読む日本の出版』にのせるための原稿の素案



編集の根本は、新しい企画を作り出すことであり、そのことは基本的に全く変わっていない。印刷現場の技術の変遷と連動して、編集という仕事がどのように変わってきたのかということを述べる。

私が、編集の仕事を始めたのが、1986年である。その時期は、多くの出版社の編集現場ではもうほとんど電算写植で本文を組むという時代になっていたのではないだろうか。

精興社のHPの資料によると次の通り。

1979年(昭和54年)8月 青梅工場に初の平版印刷機を導入
1986年(昭和61年)12月 青梅工場第1期工事完成、組版電算化システム導入
1995年(平成7年)8月 活版印刷部門を整理


精興社は、活版組版に定評のある社であり、電算写植の導入は遅い方であったのではないだろうか。私の入社したおうふうは、日本の古典文学の研究書を刊行しており、活字のない異体字を作字して組み込むことがあったためと、もう1つの理由は、紙型をとらず重版ができないけれども、コストはかからない原版刷りという方法をとっていたため、活版の組版がまだ大半を占めていた。活字時代は、活字という物理的な物体によって、ページを構成していく。今となっては想像も出来ないかもしれないが、ワープロやパソコンの無い時代なので、著者の原稿はすべて手書きである。したがって、印刷所の組版工は原稿の文字を判別し、活字を探し、組むということになる。

この時代は、日本語変換ソフトは組版工のあたまと手先にあったということになる。職人が組んだ活字とどう突き合うかということが重要であった。ワープロソフトで変換しているわけではなく、頻度順と言われる活字箱から活字を選んでいくので、文字の形が似ているが、違う字が組み込まれるという誤植に注意を払う必要があった。活字箱にない文字は〓が組まれ、赤字を入れて、再校の時に印刷所が活字を追加で購入して組み込まれるのを待った。この時代は、組まれたゲラを大幅差し替えということは厳禁だったので、印刷所への入稿前に原稿を一定レベルで確認するということが、重要だった。組版について、印刷所の組版工の人的な能力に依存していたので、印刷所によって組版能力が大きく違っていた。横組みで割り増し、欧文混じりでさらに割り増しという価格体系であった。図版なども単純な線しかない簡単なものであっても、外部の人のトレース屋さんに線を描いてもらい、そこに手動写植屋さんに文字を打ってもらって張り込み、それを製版所に依頼して凸版にして、版に組み込むということをした。一回作ってしまうと変更することは非常に困難であったので、慎重に作業をする必要があった。

80年代半ばを過ぎると活版の全盛期ではなかった。東京では広く普及していた電算写植は、写研の独壇場だったといえよう。次々と新しいデザイン性のある書体が発表され、デザイン性の強い書籍の場合は、見出しは手動写植機で打ち、張り込んでいた。1980年代後半まで組版は、閉じられた電算写植の仕組みで行われていた。ワープロで打ったテキストデータのコンバートができなかった。写研の機械で入力から印画紙出しまでのフルラインを組んで、組版からゲラの校正、印画紙出しまで行うとページ当たりの組版代はかなり高価なだった。しかしながら、この時代は出版業も今と比べると景気の良かった時代で、今から見ると高コストでもどうにか採算が採れるという時代だった。

1980年代の半ばにワープロが一気に普及する。「日本語ワードプロセッサの第1号機が市場に登場したのは、79年(昭和54年)2月。東芝が発売したカナ漢字変換方式の「TOSWORD」で、価格は630万円だった。(中略)93年までワープロ上位の時代が続いた。」(BCN This Week 2001年11月12日 http://www.computernews.com/)それは、今まで印刷所の活字箱と組版工にしかできなかった文字変換を全ての人ができるようになるというある意味革命的なことだった。(『読書空間の近代──方法としての柳田国男』弘文堂,1987年)ワープロが普及し、やっと1980年代の後半から、ワープロ原稿をコンバートしてそれを写研の文字に変換するということができるようになった。その結果、データ入稿が行われるようになった。この時代にワープロが大きく普及したことも原因の1つ。(情報処理ツールの日本語ワープロとパソコンの推移を見ると、ワープロの普及は短期間に急速に普及したことがわかる。調査開始前の1983年には1.8%と2%に満たなかったが、10年後の1993年には40%を超えている。社団法人 中央調査社 http://www.crs.or.jp/5082.htm)次に、クローズドであった写研の組版機の組版システムが解読されるということが起こる。これは写研としては不本意なことであったと思うが、その結果、組版作業の段階は、普通の安価なパソコンとエディターソフトでできるようになり、組版価格の価格破壊が起こった。

アンテナハウスのHPによると

1986年12月 ワープロ専用機とMS-DOS文書コンパータ出荷開始
1990年03月 「リッチ・テキスト・コンバータ」シリーズ出荷開始


テキストデータを写研の機械に持ち込むことができるようになる。原稿を著者の書いたワープロ原稿をFDに保存してもらって、それを受け取るという時代の到来である。ワープロ専用機は、データの互換性が十分ではなかったので、データ変換を専門にしている会社にFDを持ち込んで変換してもらうということもあった。著者からデジタルデータを受け取る割合が、2001年に64.3%であったところが、2005年には75.7%になっている。(『日本雑誌協会 日本書籍出版協会50年史』2007)

一方で、この時代の裏側で1980年代の半ばにデスクトップパブリッシング革命が起こった。1986年にapple社のマッキントッシュとアドビ社のpostscriptとアルダス社のpagemakerによって、机の上で、書籍、雑誌の版下を作ることができるということが起きた。アメリカでは1986年であったが、間もなく日本でもDTPの流れがはじまった。1987年10月号で別冊科学朝日ASAHIパソコンでデスクトップパブリッシングの特集が組まれている。

DTPの場合、もともとは個人印刷を支える技術として出発したが、印刷業界と出版業界というプロの世界に大きな影響を与えた。利用の方法として、出版社の外側である印刷所がDTPのやり方で印刷工程を作る場合と、出版社自身が内製化し、社内で版下を作るという2つの場合がある。「書籍の出版企画・製作等に関する実態調査」(社団法人 日本書籍出版協会 2005)によるとDTPを使う社内と答えた社が37.6%で印刷所と答えた社が63.3%である。DTPによる内製化が進む時代は出版業界の不況が深刻化する時代で、内製化し、社内で組むことで外注コストを減らし、企業として継続できたという側面もある。ちょうど、バブルの崩壊と時期は重なっている。DTPとそれに伴う組版コストの下落がなければ出版業界はなりたたなかったであろう。ひつじ書房の場合は、創業したのは1990年だが、早くにマックも導入していた組版所の社長のすすめで、1993年に、マッキントッシュを導入し、1冊目をDTPで作った。

簡単な図版であれば、社内でイラストレーターなどのソフトで作ることができるし、社外に発注した場合も作ってもらったものを微調整することもできるようになった。凸版を作っていた時代とは大きな変化である。一方、編集者もある程度ソフトの機能、特徴を知っているかいないかで、作業の効率、精度が変わるということになり、コンピュータリテラシーを求められるようになった。InDesignの場合、残念ながら、多くの印刷所はInDesigのデフォルトを使っており、その印刷所の持っていたはずの過去の組版力を継承していないから、編集者が文字アキ量設定や合成フォントの機能を理解しているかいないかで、組版の仕上がりの品質が大幅に変わるようになった。逆に知っていれば、自分で組まなくても、きれいな組版の書籍を出せる。また、それまではできなかった出版社ごとあるいは編集部ごとの組版のハウスルールを作ることもできる。小規模の出版社の場合、簡単な広告はイラストレーターなどのソフトで編集者が作っている場合も少なくないのではないだろうか。そのようにして、使いこなせれば、コストを下げて出版社として生き延びやすくなっている。一方、編集者に組版の理解が無く、印刷所にも組版のノウハウがなければ、悲惨なものが出来てしまう時代である。業務の境界が曖昧になる中で、仕事のマネジメントの必要性が高まった。

InDesignなどの個別のソフトでなくてもコンピュータのリテラシーは必要になった。印刷所に組んでもらう場合でも、著者のテキストの表記の統一などをデータの整形ということを考えるとテキストエディターなどを使って高度な検索置換を行ったり、wordや一太郎を使って表記の統一をはかった方があとあと編集が楽である。少なくとも理解していないと非常に効率が悪くなり、一冊、何万部という多くの部数を売れる著者を抱えている編集者は別として現在のように発行部数が限られていてコストに厳しい時代にはやっていけない。

インターネットの普及も編集現場の仕事を大きく変えてきている。著者との連絡や原稿の受け取りにメールを使っている場合も多い。メールもスパムメールが多くなった中で届かないこともあり、ネットワークについての理解も重要。原稿の送受についても文字化けは起こりうることであることと、図表など著者の仕上がりイメージと著者が作ったものとの間に落差があるために、データのみ入稿には危険がある。やり直しなどの無駄なコストがかからないようにするために著者が打ち出しを確認した紙の原稿をデータと一緒に受け取ることを原則とすべきだ。

印刷も、フィルムを製版してという時代から、CTPというデジタルデータのまま、刷版できるという時代になり、フィルムによる白焼きがなくなって、インクジェットによる白焼きもどきで確認することになり、コストは削減できるというメリットもあるが最終的な印刷品質を確認する段階を省略するようになって危険性も高まっている。この点で事前に解像度などに懸念がある場合は、試しにわざわざ印刷機で印刷するなどの安全策をとる必要がある場合があることになる。

著者を探すというところから、インターネットが活躍している。かつては『大学職員録』のような紙の名簿や学会名簿、年鑑などを手元に置いておく必要があったが、研究者の情報もある程度ネットで検索できるようになっている。若手の書き手が自分の文章をネットにアップしているので、著者を探したり、企画の持ち込みがあった場合なども、以前よりも容易に調べたり、著作物を図書館のopacオンライン書店で調べることもできる。これらは、かつては図書総目録がなければ、あるいは図書館まで行かなければできなかったことである。情報を知る時にgoogleなどを使いこなすと言うことはもう当たり前になっている。信頼性に不安はあるが、ちょっと調べたいと思った時にwikipedeiaがあるというのは便利なことである。

さらに販売促進・プロモーションのためにブログに日記を付けたりということもあり、編集者が担当している書籍の情報をネットに公開すると言うこともあるから、ネットで情報発信する知識は必要とされることが少なくない。新しいサービスやソフトが生まれ、技術の進展は激しいが、比較的短期間で見捨てられるものもあり、どれにコミットするかは難しい問題だ。知識の問題ではなく、書籍をどのように作っていくかという編集者のスタンスである。書籍を世の中に受け入れてもらうというために、情報の発信は必須のものと考えている。ちなみに、ブログを動かしているプログラムはムーバブルタイプという名前であり、これは「活字」という意味である。また、21世紀に紙の書籍を出すと言うことの意義は何なのか、ということについて自分の考えを持っていなければ、編集者とは言えない。

最近、受け取る原稿で旧原稿をスキャンして、改稿して編集部に入稿される原稿を受け取ることがあり、活版時代のように形が似ているが文字が違う誤植も復活してようなことがある。活版時代の復活だろうか。