アニメの殿堂 ひつじ書房の責任販売制

朝日新聞アニメの殿堂についての記事で、浦沢直樹が、マンガはエログロも含めて、価値が多様であり、すべてのものを収録するのでなければ意味がないと言っていた。これは、面白い発言だ。

◆気味の悪い「国のお墨付き」(浦沢直樹氏)

我々は既存の芸術作品と同じ気合いでマンガを描いている。マンガには政治や政府エロティックなもの、くだらないものがたくさんある。全てのマンガが保管できないとしたとき、それをひとくくりに、例えば赤塚不二夫先生の担当編集者の靴下が臭いことを延々と描いたものがあるが、どうやって選別するのか。全てのマンガは100%同等に扱って欲しい。
マンガの原稿は極端に言えば版下。保存するなら推進派の人はスキャンデータで置いておけば良いではないか。そして原稿はマンガ家のもの。保存しようが売りに出そうが自由だ。
国営マンガ喫茶」と卑下しマンガを愛してもいない人や、これに乗っかるマスコミも嫌だ。よってたかってマンガをバカにしているようで不愉快だ。
117億円あるなら使えばいい。マンガはそれだけの芸術だ。そんな相反した思いだ。(聞き手:小原篤記者)



作家が書いたものは、少なくともそれが売れるか売れないか、倫理的かそうではないかは別として存在できないと行けないと言うことだ。とすると、流通の段階でこれは流通できないとかいうことは許されない。最終的な読者しかそれを判断できないということである。

取次の窓口の人が、仕入れ部数を決めるなどと言うことはおかしなことなのである。というか返品という問題はそういうこと、問屋には中身を評価できない、するべきではないというところにある。現在、小学館などが責任販売と言っているのは、誰でも家庭に必備であるとも言える家庭医学百科などの場合であって、こういうものはどちらかというと定番てきなものなのだ、あるいはもう有名な作家でほとんどだいたい売れるに決まっているもの、売れ出しているもののような確定的な商品、定番的な製品というものを全てと考えるのはどうか?定番的ではないものをどう生かしていくかということが重要なのではないのだろうか。

とすると今言われている責任販売性というのは、出版の非出版化を求めるという少し方向のずれた話しなのではないか、などと心配になってしまう。

定番物を低正味で下ろすことに文句はない。しかし、そういう定番的な本は大手の定番が得意なところだけの話しであって、一般化はできまい。むしろ、本というモノは、商品化、定番化、製品化できるかどうか危ういところでジャンプがあるから面白いわけだ。

ひつじ書房は非常に単純な原則がありまして、客注品は返品は受けない(受ける場合は掛け落ち)、というのは実際に注文者があってのものであるから、その受注を受けたものは売るのが原則だろう。見計らい、あるいは置いてみようと書店さんが、自主的に仕入れてくれたものについては、了解があれば、返品はいつでも受け取るというものである。非常にシンプルな責任販売制だと思うが、いくつかの書店さんに客注返品は受けないんですというと「委託はやっていないですか」という答えが返ってくることがある。これはどうだろうか。ひつじ書房はシンプルな責任販売を行っているだけなのだけれど。

今言われている、責任販売制というのは、「定番モノ買い取り制」と呼ぶべきではないだろうか。もし、新人作家の著作を刊行する前に、ネットか何かで、概要を告知して、それを入札するというようなことがあれば、ネット自体の責任販売制と呼べると思うが、今いっているものは、単なる買い取り制というべきだろう。くりかえすが、定番的ではない書籍には使えない方法であり、出版流通の改革という視点で語られるべき価値は、今のままではないと思う。辛口な発言だろうか?

ひつじの考えはシンプルである。最後に商品の価値を決めることのできるのはお客さんだけである。取次も書店もあるいは出版社も作ってみる、置いてみる、流してみるということしかできない。思い入れ、こうだろうという仮説があり、それがそれなりに精度を持たせることができなければ、商売自体ができないにしろ。

国営マンガ喫茶」と卑下しマンガを愛してもいない人や、これに乗っかるマスコミも嫌だ。よってたかってマンガをバカにしているようで不愉快だ。


同感。民主党の鳩山党首が、文化政策と母子家庭支援を同列に論じるのは(その切実さは認識するものの)、文化政策というものをどう立てるのかという議論がなければ、文化政策を持てないと言うことになってしまう。生きるか死ぬかの切実な問題に対して、文化的な政策は、常に存在できないことになる。これは難問なのではあるけれども、簡単にすませてはいけないと思う。