出版の未来、学術出版の未来 その1

出版の未来、学術出版の未来 その1


デジタル化、インターネット化によって出版はどう変わるのかということ、そうした環境の中で、どう生き延びるかというのは、ひつじ書房をスタートさせてから、ほとんど最初から大きな問題だった。現在、ひつじ書房の考えは、ネットも紙も両方を組み合わせた出版というものを目指している。棲み分けではなくて、棲み合わせという考えで出版の仕事をしている。

紙のメディアとしての特性を最大限にいかしつつ、ネット・デジタルのメディアとしての特性をも生かして、出版を行っていくという考えです。いたって、奇をてらわない、地道なものだ。自然体といってもいい。しかし、かなり、サバイバルを考えていて、考えすぎているけらいもあって、やり過ぎといえないこともない。あれもこれもやろうと手を出しながら、反省しつつ…。

1990年に創業した。80年代のお終い頃にパソコン通信というのがあって、PC-VANとか何だかいろいろな電機メーカーが、独自のネットワークを作っていた。PC-VANは、NECだが、富士通日商岩井と組んでやっていたのが、Niftyserveであります。この時期、Niftyserveの使い方の本が書店には高く高く平積みされていた。そもそも、厚かったんですね。そして、いろいろなフォーラムという趣味や実益を兼ねたグループがあって、そこにアクセスして、情報を交換したり、趣味のことを話し合ったり、喧嘩したりしていた、というわけです。

今で言うとMixiのコミュニティのような感じですが、たぶん、ずっと活発だったと思います。Mixiとの違いはアクセスするのにお金が掛かったことです。パソ通はお金のかかる遊びだったのですね。アクセス料金の他に電話代も掛かりました。そうなんですね、電話、ADSLじゃないですよ、音声電話回線を使っていました。たぶん。フォーラムを作るのには、事務局の承認が必要でした。フォーラムの責任者になるのにも、事務局の承認が必要で、承認されるとアクセス量(おもに、ユーザーが接続している時間ですね)に応じて、お金が支払われていました。wndowsのフォーラムなんかは、主催社になると年間数千万手に入ったという話しでした。

私は、その中で言語のフォーラムと印刷のフォーラムと出版のフォーラムに入っておりました。もちろん、運営側ではなくて、一会員としてアクセスして、たまに質問やら雑談やらを書き込んでいたにすぎません。言語のフォーラムではロシア語の印刷方法を聞き、その結果、マックを導入することになり、(windowsマシンではロシア語がでなかったので)、DTPをはじめて、それで印刷フォーラムのお世話になり、本のことについては、出版関係のフォーラムのお世話になっていました。

そのころは、インターネットが全く普及していない時代で、絶版になった本などを共有しようというシェアテキストフォーラムというものにも少しお世話になっていました。古瀬さんはお元気なのでしょうか?

その時代はメールを送ろうにもNiftyserveの中でしか送れず、違うパソ通の人にはメールを送れなかった、という時代です。




続く