柳家小三治師匠 落語家論とま・く・ら

myougadani2009-02-19

柳家小三治師匠の『落語家論』は、2001年にでた本で、今は筑摩文庫に入っている。もともとは後輩の落語家に対するエールとして書かれたものという。最初の部の扉に「紅顔の落語家諸君!」とある。かなりつよい口調で後輩たちを叱咤、激励している。落語家論があるのなら、編集者論もありうるのかもしれない。

「誰も助けてくれない」という章で、人材不足を嘆いている。「なぜ、これという人材が出てこないのか」と。こういうのは、下手をすると自分のことを棚に上げた単なるぼやきのように受け取られがちだが、若い落語家への期待ある切実感があって、そういういやらしさを逃れていると思う。

「誰も助けてくれない」の最後の少し前に


だいたい、人間が人間を育てられるわけがない。…教えてもらえるものじゃない、自分で考えて生きていくわけだ…(みんながやっているように)毎日なんとかすごしていれば、そのうちなんとかなると思っちゃいないか? ん? なんともならないぜ。

と書いている。私を小三治師匠になぞらえることができるわけではないが、教えることはできない、というのはそのとおりだと思う。自分で考えて生きていくしかない。




『落語家論』にくらべて、1998年にでた『ま・く・ら』の方はいくぶん優しい。『落語家論』の方は1980年代に連載したもので書かれた時期は、『ま・く・ら』よりも前なのだ。『ま・く・ら』の最後の章は、自分の弟子の落語家の襲名披露のライブ記録となっている。そこで、小三治師匠は、弟子達に懺悔をしている。


なかなか人を育てる、見るというのは難しいもので、つまり自分がこうあってほしいからとそっちへ追いやろうと思ってもダメなんですね。そっちへ行くなよと、かえって引き戻してやると、自分の力で向こうへ行こうとする。…その自分の力を見つけてやるということが実は大変なことだったんだということを、あたくし五十五を過ぎてからそれがすこぅし見えてまいりました…あのころは本当に(深々と両手をついて頭を下げる)すみませんでしたと(笑)


自分の力、ということについて、一貫しているようだ。誤解を避けるためにいうと自己責任みたいなことではない。