ソーシャルデザインということば

ソーシャルデザインということば、昔はいい語感だなと思っていた。社会をデザインし直す、というのは、今の社会が問題があるのなら、社会を良くするということであるし、社会改革というのはよいことだと。

昔と言っても2年前くらいだ。ちょっとやだなと思い始めたのは、神様ではない人間がデザインするとしたら、自分が気がついていないことについてはデザインできないということ。分かっていること、知っていることだけでデザインして、もし、その通りになったとした場合に、意識化できないことがらは、どうなってしまうのだろうと危惧を感じたことによる。


たとえば、アカデミックということ。私は社会にとって大事なことだと思うし、人々が意識しない部分を救っている重要な社会的な存在だと思う。ところが、そのことを意識されていない場合、税収が減った、じゃあ、意味がないから消してもいいと言いがちなのだ。意味がないのではなく、その人にとって理由を見つけられないだけであるのに、存在理由がないということになってしまう。


私は規制緩和自体に反対ではないが、意識化されていないものイコール過去の遺産、悪いものとされてしまい、どんどんと消し去られていくということを招いた。この発想については、多くの人が共有してしまっている。自分に感心のない物は無くなってもいいと。

そういう発想の裏側に、社会はデザインできるものである、というおごりがあるような気がする。ということで、今はあまり好きではないことばになってしまった。

どうなんだろうか。