『「女ことば」はつくられる』が、山川菊栄賞受賞

『「女ことば」はつくられる』が、山川菊栄賞受賞しました。

和やかな会で、中村桃子先生の講演も面白く、楽しい会でした。

桃子先生の講演は、文字化されて『社会主義』に掲載されるとのことです。今どき、社会主義?っていう感想が、正直なところですが、山川菊栄ゆかりの雑誌であるとのことです。

http://www5f.biglobe.ne.jp/%7Erounou/myweb1_115.htm

スピーチの後、参加者の方々が質問やコメントを述べられましたが、筋の通った話しぶりで、感じるものがありました。雑誌『社会主義』は、ネットで検索すると社会主義協会の機関誌とのことです。社会主義協会というと、かつての社会党左派の組織で、社会党の中ではごりごりの時代の流れと隔絶した、理論中心の団体という印象がありました。

しかしながら、発言される方の発言内容はまっとうなもので、教条主義的な印象は受けませんでした。山川菊栄記念会が、直接、関係あるということではありませんので、的外れな感想かも知れません。

『ポスト・デモクラシー』を読み、次に『失われた民主主義』(シーダ・スコッチポル 慶應大学出版会)を読んでいますが、同じ問題意識があります。テーマ中心の政治活動が盛んになった結果、テーマごとに活動が孤立化していると言います。全国的な政治活動が衰退した結果、共有される社会問題意識がなくなり、個別個別になってしまったことが、今、問題になっているのではないか。

セグメント化したキャンペーンという手法、マーケティング的な手法によって行われる政治活動は、活性化した部分と無関心を生み出した部分があるのではないか、といいます。私の要約は不十分ですが、そのような視点に立つと、労働者であるとか、無産者であるとか、といった今となっては強引とも正直感じられるようなことばではありますが、市場only主義や経済主義への対抗軸というものとしての意味も、捉え返されるのではないかという気がしてきます。

とすると、新左翼というものもすでに古くなってしまった21世紀において、オールド左翼というものも、見直してもいいのかも知れません。

人権とか労働者の地位向上とかというものも、今や、何だか近代主義的な否定的な視点で見られることもあると思いますが、といって、ポストモダンの思想というものが、結果としてほとんど解体しかしなかったということも反省してみる必要があるのかも知れません。ポストポストモダンという文脈で、改めて考えてみる可能性もあるのかもしれないと思いました。