日本語教育の修士の方々、研究職に就かずとも研究を続けて欲しい

今回はいささか愚痴モードです。日本語教育修士の方々、研究職に就かずとも研究を続けて欲しいなあと。


早稲田大学日本語教育学会が開催されました。それなりに盛況であったと思いますし、展示した書籍も動いてくれた。日本語教育学会は、本が売れてくれる、買ってもらえる学会であり、ひつじもスタッフは、私とMとTとEの4名が参加しました。あとで聞いたある先生の話だと1300人参加者がいたということで、嘘ではないでしょうがそれが本当ならというものなんですが、実感しにくいのですが、参加人数は多かったということです。私たちは書籍を展示して売っているので、その時に売れたという実感がないとその人数が感覚としてわからない。実感できなかったということは、書籍展示のところに来て下さらなかったということなのかもしれない。



日本語教育学会にいくとネガティブモードになってしまう危険性があって、どうにも構えてしまうところがある、以前勤めていた人間で出版社を作ったものがいて、その連中に会いたくないし、もっというとそういう連中(私の感覚的には主張の違いではなく、倫理的な問題があるから)のところに原稿を書いている人とも会いたくないというのが正直なところなのであるが、私は日曜日にしか出かけなかったということもあって、ほとんど今回は見かけなかったのでネガティブモードがあまり発動しなかったのが、本当に幸いだった。冷静になりたいと思っても、もう、10メートル以内に来られると自動的にネガティブスイッチが入ってしまう。これは、理性ではなく、自律神経の怒りのようである。



帰り道、たまたま、同行したある先生のお話によるとある大学の日本語教育修士の院生は、ほとんど修士を終えた後、企業に就職してしまうということ。職業選択の自由謳歌しすぎと批判するのもおかしいけれども、学者にならなくてもかまわない。現在のように大学の研究職への就職が困難な時代は研究職を目指して大学院に入ること自体が困難なのだろうから、と思うが、大学院の端くれなのだから、研究者的であってほしい点もある。



それでも、中学・高等学校の英語であるとか国語であるとかの教師になるとか、ことばを教えることに関係している仕事に就くという選択肢もありそうな気もするのであるが、そういう選択もないということなのだろう。



研究は趣味にしておいて、実際には別のことで世をしのぐということでもないのだろう。であるとしたら、何のために大学院に行くのだろう。もし、企業に勤めるためであるのなら、もともと経営学などをやった方が近道なのであるように思う。何のために日本語教育を大学院で学ぶことを選ぶ?単なる就職時期の延長。単なるモラトリアム?




大学院生という名前の腰掛け人。そうであれば、研究書など、自分の修士論文を書くために必要な論文しか読まないだろう。残念なことに、研究書を買って読む読者にはなってくれないだろう。それは大学院生と呼べる存在だろうか。名前だけのような気がする。



これは偉そうなことを言いたいのではなくて、出版社のオヤジとして大学院生は修士であっても研究者の端くれとして、けちけちせず、どんどん本を買って欲しいということなのである。就職できないから、研究しないというのは私の感覚ではおかしい。日本語教育というトピックであるなら、言葉を教える、言葉を学ぶというのはどういうことなんだろう、という初発の問いがあってそれを追い続けるということが研究であって、大学に勤めるということは、本来は2次的なことだ。



大学の就職できないから、修士論文を書き上げることを目的にして、その目的と関わらないことはいっさい目を向けないというのは、もともと知的な動機が不十分であったということなのではないか。極端ないい方をするとそういう方は大学院に行くべきではないように思う。




こういうふうに思いますのも、中古文学会で翰林書房さんの出店先で、肩書きとしては非常勤であっても、しっかりした研究書がでているのを見たからであるかもしれない。言語教育畑は、そういう意味では研究に対してフェチではないように思う。もう少し粘着質であった方がよいのではないだろうか。